とっちらかんと

~迷子の寄り道~

【イヴの時間 劇場版】温かい飲み物と一緒がおススメ。

これはだいぶ前に観たのだけれど、改めて観てやっぱり良かった。元々はインターネットで配信されたショートシリーズのアニメで、口コミが広がったことで新作シーンを加えた完全版として制作されたのがこの劇場版だそうです。面白い作品が広まるルートはこうでなくちゃという気もします。もしも私達の世界が、人間かアンドロイドか見分けがつかない『イヴの時間』の世界観のようだった場合、自分はどんな考えを持つのだろうかという不安。観ている間中、そんなことが頭の中を巡った。

映画やゲームなど、作品として観ているだけの今とはどんなふうに違うのかな。何も変わらないなんてことはないと思うけれど、そもそも不安を感じた理由はなんだろう。

以前この作品を観た時というのは、おそらく10年ほど前で、その頃は映画A.I.を漠然と思い出した。でも今回思い出したのは数年前発売のゲーム『Detroit: Become Human』でした。どちらも、決定的に違う部分はあるものの、外見では人間と見分けが付きづらい精巧なアンドロイドが生活の中に居る世界。やはり否定派、肯定派が居たりするし、キャラクターや、その状況によっては機械感が凄かったりもする。あぁ、なんか頭の中に色々な作品がリンクしてきたけれど全部おぼろげ・・・

「イヴの時間 劇場版」 [Blu-ray]

作品名:イヴの時間 劇場版

監督:吉浦康裕

製作年:2010年
キャスト:福山 潤  他

発売元:アスミック・エース

 

こういう作品を観ると、私は決まって「あ~アンドロイドとは過ごせない」と感じる。どんな役割であれ、最後には辛くなりそう。

役割。アンドロイドが何か明確な目的でデザインされる点は、どの作品でも共通しています。例えば『A.I.』でも、ジュード・ロウと主演のアンドロイドでは役割が違いました。『Detroit』でも、アンドロイド入手の手続きは簡略化されているようでしたが、やはり役割の描写があったように記憶しています。『イヴの時間』では比較的はっきりしています。

それなのに、『イヴの時間』は他の作品とは違うように感じました。リングを消して人間と区別できない状態でいる事を「ロボット法違反」と言えるほどに、法律にまで組み込まれている世界観さえはっきり描かれているのに、感情を持ち、考え、当たり前のようにカウンターで会話し、自分の不足分を補おうと主の為に努力するような、アンドロイドには本来ないはずの性質が、異端には思えなかったからかもしれません。これは、人間とアンドロイドを区別しないという店内ルールのある「イヴの時間」というカフェの空間が、一時リセットしてくれるからかもしれません。だからこそ、苦しく感じるシーンがあったりもしましたが。

イヴの時間」は黒寄りのグレーな店。自分の家のハウスロイドの異変に気付いて行動記録を調べたことで、主人公達は辿り着きました。ここで飲んだコーヒーに、自分の家のハウスロイドの異変との共通点を見た主人公は、帰宅後に一悶着。この時、主人公は姉から「ドリ系っぽい」と揶揄されます。作中では社会問題として「ドリ系(Android Holic/アンドロイド精神依存症)」という言葉が出て来るのですが、主人公は決してそこに分類される訳ではありません。主人公の家の場面では、主人公の姉を参加させる事で妙な空気を感じさせず、家庭内でもアンドロイドに対する考えは別々である事がわかります。いつも一緒の友人は、少しひねくれた雰囲気ですが、「ロボット3原則にないからアンドロイドは平気で嘘をつく」など、主人公だけでは展開できない考え方へ繋いでくれたり。

人間かアンドロイドかわからない状況での関係や観察の展開、個人的には珍しいと感じたキャラクターの映し方なども含めたカメラワークや光彩、会話や音の間も含めて、「あっという間」と感じさせる要素になっています。こんな場所があったら働いてみたいなと感じました。常連になるよりも、迎える側になりたい。

こちらは、ウェブ版『イヴの時間』全6話をHD画質・オーディオリニューアルで完全収録されたもの。購入を悩んでいるので貼っとく。

SF作品は色褪せないんだな~なんて、思ったりもします。もしまだ観ていない方が居たら、是非観て欲しいな~。「アンドロイド」という言葉に、私はOSや改良型人型ロボットというイメージを持っていたのですが、フランスの作家ビリエ・ド・リラダンの長編未来のイヴに登場する「人造人間」を指す言葉だそうです。1886年ですよ、こんな時代にできた言葉なんですね。お店の名前、ここからなのかしら。この頃には「未来」としていた時代に差し掛かりつつある「時間」の中に居るなんて、ロマンティックなことです。

とはいえ、PLUTOの天馬博士みたいに、亡き息子を模してアンドロイドを製作するなんて事が当たり前になってしまったら、更なる精神的な問題を生みそうにも思える。それこそ「ドリ系」のような。